風邪と黄砂に悩まされた沖縄旅行

2010年3月、奈多は友人と沖縄を旅してきました。沖縄へはそれよりずっと以前から行ってみたいと思っていたのですが、この年、ようやく念願かなってその機会を得ることになったというわけです。

しかし、こともあろうに沖縄出発の直前になって風邪を引いてしまい、しかも旅行中こじらせ、さんざんな目に遭いました。同行した友人にもかなりの迷惑をかける結果となり、日頃の健康管理のまずさを反省しきりです。

さらに2日目からは激しい黄砂に見舞われ、沖縄の青い空はすっかりくすんでしまいました。普段は美しい景勝地もこのありさま……。

万座毛

有名な景勝地「万座毛」も、黄砂で霞んでこの通り

とまあ、さんざんな旅行ではあったのですが、しかしそれでも沖縄は、奈多にとってとても魅力的な場所に感じられました。また、沖縄の歴史、文化、自然を肌で感じることができましたし、沖縄の人々が抱えてきた悲惨な過去や基地問題なども、直接関わってきた人たちの声を聞くことができ、改めていろいろと考えさせられた旅でもありました。

その時の印象も含めて、訪れた場所の写真なども紹介しつつ、少し沖縄の歴史について書いてみようと思います。

 

外国から支配され続けた琉球王国

琉球は、15世紀の初め頃まで三つの大きな勢力に分かれて争っていました(北山、中山、南山の三山時代)。その後、1420年代に中山の支配者であった尚巴志が全土を統一し、琉球王国が誕生したそうです。

三山時代と琉球王国時代の城跡を、奈多も訪ねました。

今帰仁城跡

今帰仁城跡(世界遺産)

ここは三山時代、沖縄本島北部を支配した北山の城だったと考えられています。琉球統一後は北部地域の管理をする監守の居城となりましたが、1609年に薩摩軍の侵攻に遭い、落城したそうです。沖縄各地に残る城跡独特の石積がみられ、とても興味深い遺跡でした。

また、ここは有名な景勝地としても知られています。写真は奈多が訪れた時のもの。本来なら城壁の向こうに美しい珊瑚礁の海が広がって見えるはずですが、あいにくの激しい黄砂のため、この有様……(泣)。

首里城

首里城(世界遺産)

こちらは有名ですね。琉球王国のお城です。訪問時は漆の塗り直し工事中でした。現在では工事も終わっているはずなので、これから行かれる方は美しい外観も堪能できると思います。

当時の琉球王国は、中国や日本、東南アジアなど周辺諸国との中継貿易で大変栄えていたそうです。こう書くと、立派な独立国であったように聞こえますが、実際には中国皇帝が琉球国王を任命するという冊封制度が執られていました。

これはかつての邪馬台国や日韓併合前の朝鮮半島の国々と同様で、間接的に中国皇帝の支配下にあったということです。この時代を、沖縄では「唐の世(トーヌユー)」と呼んでいます。

斎場御嶽

斎場御嶽(せーふぁーうたき/世界遺産)

琉球王国では独自の文化、伝統、宗教が発展しました。御嶽(うたき)とは、南西諸島各地に点在する「聖地」のことで、ここは琉球民族の祖とされる神アマミキヨを礼拝する琉球王国最高の聖地です。ここは本来男子禁制の地で、神に仕える女性が儀式を行った場所だそうです。

ちなみに今は世界遺産として整備され、男性の観光客もたくさん訪れています。

それにしても、かつての琉球王国が邪馬台国と同様のシャーマン国家(神の言葉を聞く巫女を中心に政治を行う国家)であったとすると、実に興味深いですね。

古代の日本については、シャーマン国家であった邪馬台国が大陸から来た騎馬民族(大和朝廷)によって侵攻され、北へ逃げたものが蝦夷やアイヌとなり、南へ逃げたものが琉球王国を築いたのではないかという説があります。アイヌ民族や東北地方にも「いたこ」と呼ばれるシャーマンが存在しているし、沖縄もそうだとすると……などと、古代日本への空想も広がります。

さて、このように独自の発展を遂げていった琉球王国でしたが、やがて日本からの支配を受けるようになっていきます。

徳川家康が江戸幕府を開いた直後の1609年、薩摩藩が圧倒的兵力をもって琉球王国に侵攻しました。当時たいした武力を持たない琉球王国はわずか10日ほどで占領されてしまい、以後、薩摩藩の植民地となるのです。

薩摩藩は琉球王国に対し、不平等な「掟十五ヵ条」を押しつけながら、中国に対してはその事実を隠蔽しました。また、琉球人が日本人風の衣装や髪型をしたり、日本人っぽい名前を付けたりすることを禁止した上で、国王即位の際には江戸に中国風の行列で使節団を送らせ、薩摩藩が「異国」を支配する強い藩であると世間に印象づけるために利用したそうです。

しかしこの支配形態も、明治維新と琉球処分によって大きな転換を迎えることになります。

薩摩藩に支配された17世紀以降、琉球王国には武器らしい武器が無く、武力を持たない平和な王国としてヨーロッパにまで知られていたといいます。しかし、その平和だった島国が、この後、あまりにも惨たらしい時代を迎えることになるのです……。

見捨てられた浮沈空母“沖縄”

明治維新が起き、日本本土で廃藩置県が行われた後の1872年、明治政府は琉球藩を設置し、琉球王国を強制的に廃止しました。

その後の1879年、大日本帝国による強引な琉球支配に反発する琉球王朝の支配層は、警察と軍隊でねじ伏せられ、ついに沖縄県が設置されることになります。この時のことを、沖縄では琉球処分と呼んでいます。そして、沖縄県になってから太平洋戦争での沖縄戦に至るまでの時代は、「大和の世(ヤマトヌユー)」と呼ばれています。

やがて明治・大正・昭和と時代が移り、いよいよ沖縄にも軍国主義が影を落とし始めるのです。1941年、日本軍はハワイ真珠湾のアメリカ軍基地を攻撃。太平洋戦争が始まりました。しかし日本軍は次第に劣勢となり、それまで軍事拠点としてあまり重視されてなかった沖縄にも1943年頃から各地で空軍の飛行場が建設され始めます。

実は琉球王国が薩摩藩の植民地になってからこの頃までの沖縄は、軍事基地も駐屯地も存在しない平和な土地でした。ところが、太平洋戦争が始まり、南西諸島で日本軍が苦戦を強いられるようになると、軍は沖縄を「浮沈空母」として利用することを考えたわけです。

しかし、日本軍の敗色は濃くなる一方。1944年には沖縄各地への空襲が始まり、いよいよ運命の1945年3月、連合国軍による大規模な沖縄上陸作戦が始まりました。

旧海軍司令部壕

旧海軍司令部壕

沖縄を訪問した際、最初に訪れたのがここでした。迷路のような巨大な壕内には、司令官室、作戦室、発電室などが当時のまま残されています。旧日本海軍司令官大田実少将ほか約4000名の将兵が、この壕で壮烈な最後を遂げたといいます。その自決の痕跡までもが今も生々しく残っていて、胸が苦しくなりました。

ここで自決した大田少佐は、本土に当てた最後の電文で「県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」と結んでいます。

「沖縄では全てが焼き尽くされ、地獄のような苦しみの中で多くの沖縄県民が国のために犠牲になっているのだから、どうか後世、沖縄県民のために特別の配慮を頂きたい」と書き残して死んでいったのです。戦後の日本政府に、果たしてその声は届いたのでしょうか……。

ひめゆりの塔

ひめゆりの塔

沖縄戦が始まった1945年3月23日、陸軍病院に配属された沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校の生徒と教師240人より編成された「ひめゆり学徒隊」の慰霊塔です。

訪問した日にも、数少ないひめゆり学徒隊の生き残りである女性が、淡々と当時のことを話されていたのが印象的でした。また、平和祈念資料館内に掲げられていたおびただしい数の幼い女学生達の遺影と壮絶な体験を綴った日記の数々が、今でも強烈に脳裏に残っています。

平和の礎

平和の礎(沖縄県平和祈念公園内)

沖縄本島南部にある平和祈念公園内には、平和祈念資料館や沖縄平和祈念堂、平和の礎などが設置されています。

この公園内で、米兵とその子供たちがスケボーで遊んでいたのが何とも印象的でした。彼らはここがどういう場所なのか、知っているんでしょうか?

写真の「平和の礎」は、国籍や軍人・民間人問わず、沖縄戦で犠牲となった20万人あまりの人々全ての名前を刻んだ記念碑です。これほどの人々が、地獄のような戦場の中で苦しんで死んでいったのかと思うと、言葉を失わずにはおれません。

平和祈念資料館付近の海岸

平和祈念資料館を出ると、沖縄の美しい海が眼下に広がる

しかし、かつてこの美しい海は軍艦が取り囲む激戦地であり、多くの沖縄県民や女学生達が、追い詰められて自決していった海でもあります。悲劇としか言いようがありません。

当時のアメリカ軍の攻撃は凄まじく、わずか1日で数万発ものロケット弾や迫撃弾が撃ち込まれ、「鉄の暴風」と恐れられたそうです。その上、本来は国民を守るはずの日本軍は、壕に避難していた沖縄県民を追い出したり、泣き叫ぶ赤子を銃剣で刺し殺したり、沖縄弁をしゃべっただけでスパイ扱いして銃殺したり……。信じられない数の人々が、自決と日本軍による殺害によって死んでいったのです。

こうした地獄のような日々が3ヶ月も続いたのかと思うと、あまりにも想像を絶する悲惨さで、言葉に言い表せません。この沖縄戦で、日米軍人の死者9万4000人に対し、沖縄県の住民の死者は15万人以上におよんでいます。

こうして凄惨な犠牲を生んだ沖縄戦は終わり、アメリカ軍による沖縄統治が始まりました。これを沖縄では「アメリカ世(ユー)」と呼んでいます。

沖縄と米軍基地

1945年3月、沖縄を占領したアメリカ軍は、米国海軍軍政府布告第一号(ニミッツ布告)を公布。軍政を敷き、沖縄を日本本土攻撃の拠点としました。

そして1945年8月15日、太平洋戦争が終結。収容所に入れられていた沖縄の住民達はその年末からそれぞれの出身地に帰ることが許されましたが、アメリカ軍が必要とする土地は軍事基地として占領されたまま。そうでなくてもほとんどの家屋は戦火で焼き尽くされ、また至る所に不発弾が残留し、その復興は容易なものではなかったそうです。

1954年9月8日、サンフランシスコ講和条約が締結。日本はようやく主権を回復しましたが、講和条約第3条により、沖縄の施政権はアメリカに渡され、沖縄の米軍支配は続くことになります。

その後、朝鮮戦争、ベトナム戦争と米ソ冷戦が激化する中、米軍は極端に安い借地料で強制的に土地を接収していきました。座り込んで抵抗する農民達も、銃剣とブルドーザーで強制的に排除し、基地を拡大・強化していったそうです。米軍兵士による犯罪や事件・事故も絶えることがなかったようですが、沖縄住民に対する米兵犯罪者への処罰は軽微で、沖縄住民に対して非常に差別的なものだったようです。

こうした状況が続く中、住民達の不満は高まり、沖縄各地で大規模なデモ活動が行われるようになります。それはやがて「日本への復帰運動」「反基地闘争」「平和運動」へと繋がっていき、ついには暴動にまで発展していきます。

こうした状況は徐々に米軍基地を維持する上でも無視できない状況となり、1972年5月15日、沖縄はようやく日本に返還されることになりました。しかし日米安全保障条約に基づき、ほとんどの米軍基地は返還後もそのまま維持されています。

現在、沖縄県には在日米軍基地の75%が集中し、沖縄本島の実に20%が米軍基地に占領されたままとなっているのです。

米軍嘉手納基地

道の駅かでなより、米軍嘉手納基地を望む

米軍嘉手納基地2

基地を囲む壁

米軍嘉手納基地3

フェンスの向こうは別の国

嘉手納基地は広さ2050ha。成田空港(950ha)の倍以上の面積を持つ、西太平洋上最大の米空軍基地です。「道の駅かでな」から見渡せるということでしたが、黄砂のため、はっきり見渡すことはできませんでした。

ただ、その広大さだけはしっかりと実感することができました。沖縄は今も当たり前のように米軍基地と共存し、人々は戦争と隣り合わせの町で生活しているのです。

米軍普天間基地

高台の展望台より普天間基地を望む

普天間基地を見渡せるという、宜野湾市にある公園の展望台へも行ってみました。ここでもやはり、激しい黄砂のために残念ながらこの有様。それでも、この基地が住宅街に密接した、非常に危険な場所にあるということはよく分かります。

普天間基地は長さ2,800mの滑走路を持つ、米軍海兵隊の基地です。騒音や事故、海兵隊員による犯罪被害に怯えながら暮らす市民のことを考えれば、ここを今のまま維持し続けることは許されないことだと思います。

辺野古1

辺野古ビーチのフェンスに付けられた基地建設反対のリボン

辺野古2

辺野古ビーチ(フェンスの向こうがキャンプ・シュワブ)

辺野古3

辺野古の座り込みテント

普天間基地移設候補地である辺野古にも立ち寄りました。

座り込みをしている基地建設反対派の方にもお会いしましたが、米軍や日本政府に訴えるという強いイメージとは裏腹に、押しつけがましくない、気さくで大人しい感じの対応で、好感が持てました。辺野古ビーチへの行き方や基地がどの辺に建設される予定なのかなど、ていねいに説明して頂き、辺野古ビーチにも行ってみました。フェンスに付けられた基地反対のメッセージの数々が印象的でした。

この辺野古地区はとても静かで小さな集落。漁港があり、米軍海兵隊の訓練場であるキャンプ・シュワブに接しています。ここを埋め立てて新たな滑走路を造り、普天間基地を移設するという案が日米両政府によって検討され、実行に移されようとしています。

しかし、ジュゴンも生息する豊かな珊瑚礁の海を埋め立て、新たな米軍基地を造ることは許せないとして、今も多くの沖縄県民、環境保護団体、反戦団体などが反対しています。

私が訪問した当時、民主党の鳩山総理大臣は、普天間基地の辺野古移転計画を撤回・再検討すると約束していましたが、紆余曲折の末、その公約は結局反故にされました。公約を撤回するに至った経緯も満足に説明されることもなく、鳩山氏は総理大臣を辞任。沖縄県民の願いは、再び裏切られることになったのです。

その後の選挙で民主党は政権を追われ、再び自民党中心の政権へと変わりましたが、民主党政治がもたらした混乱は未だに続いています。普天間基地の辺野古への移転がもし避けられないとしても、負担を強いられ続ける沖縄県民への配慮と負担軽減の努力は日本政府の責務だと思います。東アジアの平和と安定のために沖縄米軍基地が必要だと言うのであれば、日本政府とアメリカ政府は沖縄県民の声にしっかり耳を傾け、誠意を尽くすべきではないでしょうか。

でなければ、これまで長きに渡って苦難の歴史を押しつけられてきた沖縄県民に報いることにはならないと思います。

沖縄の苦難は、今も続いているのです。

(2010年3月28日〜5月3日にブログへ投稿した記事を改訂)