「やっぱりバイト、変えようかなぁ」那取大学1回生の鈴森伽奈は、夜道を歩きながら溜息を吐く。腕時計で時刻を確認すると、もう午前零時を少し過ぎていた。バイト先のコンビニで店長に残業を頼まれ、渋々引き受けた結果、すっかり遅くなってしまったのだ。少し肌寒い、秋の夜である。二時間程前まで降っていた通り雨の影響か、夜道にはうっすらと靄がかかっている。大通りから少し離れた閑静な住宅地。自動車がやっと一台通れるくらいの山際の細道。コンクリートで固められた白い道。手入れの行き届いていない街灯は方々で蛍光灯を切らしており、あまりにも頼りない。こんな時間に女性1人で歩くには、ちょっと怖い道である。伽奈は時々後ろを振り返りながら、幾分歩調を早めていた。早くマンションに戻って、暖かい布団に潜り込みたいのだ。

(あ〜あ、やっぱり残業断れば良かったな)

安易に残業を引き受けたことを、伽奈は少し後悔していた。本当なら、9時過ぎには帰れたはずなのだ。ちょっと残業したからと云って、時給も安いし、それほどメリットがあるとも思えない。大体、店長のアルバイト店員に対する傲慢な態度も気に入らなかった。煙草臭いし、自分はロクに接客しようとしない。

(だいたい何で私が残らなきゃいけないわけ? バイトが一人休んだって云っても、自分が出とけば充分仕事は捌けるはずでしょ。冗談じゃないよ、全く。明日は朝一で講義があるってのに……)

ムシャクシャした気分で、道端の小石を山の方へ蹴り飛ばす。ガサリと音を立てながら、小石は木々の間へと消えていった。

「もうやだ、さっさと帰ろ!」

わざと大きな声で云い、歩調を更に早める。人前で割と強気に振る舞う伽奈ではあったが、やはり夜道を一人で歩くのは少し怖いのだ。最近痴漢が多いという噂も聞く。現に、変な男に後をつけられたことも過去に一度あった。さっきから気持ちを怒りへ集中させているのは、心細さからくる不安を何とか紛らわせようとしてのことでもあるのだ。

──と、不意に伽奈は立ち止まった。何か妙な音が聞こえたような気がしたからである。しかし耳を澄ましてみても、冷たい秋風が顔を撫でるばかり。周囲を見回しても猫一匹見当たらず、聞こえてくる音は木の葉の掠れる音だけだった。

(気のせいだよ、きっと)

そう自分に云い聞かせて、伽奈は再び歩き出した。ところが……

べちゃ、べちゃ、べちゃ……

自分のとは別の、何か得体の知れない足音が、背後から確かに聞こえてくるのだ。確かに後ろから何かがついて来ている。背筋に悪寒が走った。

「誰かいるの?」

伽奈は思い切って立ち止まり、振り向きざまに云った。怒鳴ったつもりだったが、掠れ声しか出ない。

(嘘でしょ。もう、勘弁してよぉ)

伽奈は泣きそうになった。そこにはやはり、何もいなかったのである。猫どころか、鼠の影すら存在しない。人間が隠れられるような場所もない。

だが伽奈は、身近に得体の知れない何者かの気配を感じていた。背筋は凍りつき、心臓の鼓動は急激に早まっている。こちらが動けば、またあの足音が聞こえてきそうで、その場を動けなくなったのだ。

(……ベトベトさん?)

極限の恐怖の中で、伽奈はふとある話を思い出した。それは、昔読んだある女性誌に載っていた怪談である。夜道を歩いていると、後ろから足音がついて来るというものだ。それは「ベトベトさん」という妖怪で、その姿は見えない。それに遭遇したときは道の脇に寄り、「ベトベトさん、お先にお越し」と云えば、足音だけが通り過ぎていくのだ、という話だった。

「ベトベトさん、お先にお越し……」

伽奈は掠れ気味の精一杯の声で、そう呟いた。常識的に考えればそんな妖怪など存在するわけはないのだが、にもすがりたい気持ちだったのだ。何でもいいから、とにかくこの状況から抜け出したかった。

……

しかし、何も起こらなかった。辺りは相変わらずの静寂に包まれている。山の反対側には寝静まった住宅が並んでいた。十数メートル先で、街灯の蛍光灯が弱々しく瞬いている。

「バカみたい。何がべとべとさんだよ。怖い怖いって思うから、変な幻聴を聞いただけ。そうに決まってる」

そう云って、自分を納得させようと努力してみた。必死に自分の気持ちに反抗し、周囲の現状を客観的に捉えようと努める。背筋の悪寒は消えてくれなかったが、それでも何とか徐々に気持ちを落ち着けることができた。実際、化け物が見える訳ではないし、変な音だって今はもう聞こえない。先程のことが、夢であったかのように思えてきた。

(大丈夫。何もいやしない)

伽奈は大きく一度深呼吸をすると、再び歩き出した。しかし……

べちゃ、べちゃ、べちゃ……

歩き出してしばらくすると、やはり不気味な足音が聞こえて来るのだ。そんなことあるはずがないと何度も自分に云い聞かせたが、それでも足音は消えてくれなかった。

伽奈は走り出した。もう振り返るのも怖くて、耳を塞いで駆け出した。もう少しでマンションに着く。自分の部屋に帰りさえすれば、明るい部屋でテレビを見たり友達とゆっくり電話で話すことだってできる。

「痛いっ!」

伽奈は悲鳴を上げた。石につまずいて転んでしまったのだ。マンションまであと数百メートル程という所。横を見ると、林の中にひっそりと水を湛える溜池が見える。昼間でも充分不気味なその溜池は、伽奈の恐怖心を増大させた。おまけに例の足音が、今度は止まることもなく伽奈の方へと向かって来る。

べちゃ、べちゃ、べちゃ……

(誰か……助けて……)

伽奈はうずくまり、動けなくなっていた。足首をいたからではない。恐怖のあまり、腰が抜けてしまったのだ。

べちゃ、べちゃ、べちゃ……

足音は次第に大きくなってきていた。もうすぐ傍まで、何か得体の知れない存在が近づいている。伽奈は頭を抱え、悲鳴を上げた。

「どうか、しましたか?」

太い男の声がした。一瞬、気を失っていたようだ。

伽奈は恐る恐る顔を上げた。そこには懐中電灯を手にした、伽奈よりも少し年上くらいの男性が、心配そうな表情で立っていた。

「あ、あの、私……」

とっさのことで、伽奈は何も云えなかった。何がどうなっているのか、さっぱり判らないのだ。

「あの、悲鳴が聞こえたんで何事かと思って来たんですけど……。大丈夫ですか?」

伽奈は道端に座り込んだまま、おずおずと頷く。

よく見ると、男は長靴を履いていた。ついさっきまで泥水の中を歩いていたかのような出で立ちである。そしてその肩には、何やら小さな動物がしがみついているのが見えた。

「ミィ……」と、その動物は弱々しい鳴き声を発した。

「猫……?」

伽奈は首を傾げる。

「ああ、こいつね。実は三十分程前に道路の下の排水溝で動けなくなってるのを見つけてね、助けてやったんですよ。ほら、そこの溜池の脇にある穴から入ってね」

男はそう云うと、照れ臭そうに笑った。伽奈はというと、狐に摘まれたような表情で溜池の方を見つめている。子猫がまた、「ミィ」と鳴いた。

「それより、いったい何があったんですか?」

再び心配そうな表情で訊いてきた男の顔を見て、伽奈は思わず吹き出してしまった。自分の勘違いに気付き、可笑しくて堪らなくなったのだ。

「あのぉ、俺の顔がそんなに面白いですか?」

男は訝しげな表情で加奈を見つめる。伽奈は、「違う、違うんです」と、手を振りながら、必死で込み上げてくる笑いを抑えようともがいていた。

 あの時、河島彰という風変わりな男から譲り受けた三毛猫は、ベティという妙な名前を付けられて、今も鈴森加奈の部屋で元気に暮らしている。

(2000年11月14日執筆/初掲載)