或る夜、そいつは突然現れた。部屋には鍵を掛けていたハズ。なのに、そいつは何も言わずに部屋の中に入ってきたのだ。須乱文雄はデビュー当初、“期待の新人”ともてはやされた売れっ子の作家だった。デビュー作は大きな新人賞を受賞し、映画化もされ、飛ぶように売れた。二作目、三作目もベストセラーとなり、各地の本屋に特設コーナーが設けられるほどだった。
しかし、売れてしまったが故に仕事は多忙を極め、担当編集者からは次から次へと作品を催促される日々が続いた。須乱はそんな生活がすっかり嫌になり、ある時パッタリ書くのを止めてしまった。
とはいえ、断っても断っても仕事の依頼は留まることを知らない。編集者に呼び出され、拝み倒されたあげく、とうとうホテルの一室に缶詰にされてしまったのだ。ところがもう2ヵ月も経つのに、何も書けていなかった。
東京郊外のとあるホテルの四一三号室。窓からは海が見え、景色は素晴らしい。でも、室内にはテレビすらなく、外出も許されない。
「あーあ、やっぱりダメだ。何も浮かばない。」
須乱は半ばヒステリー気味にそう叫ぶと、ペンと原稿用紙を机の上から払い落とした。創作意欲なんて、とうの昔に失ってしまっていた。完全なスランプ状態だったのだ。
重いため息をついて机に突っ伏し、そのまま気がついたら眠っていた。それからどれくらいの時間がたったのか、ふと気配を感じて顔を上げると、そいつが何も言わずに部屋の中へと入って来るのが須乱には見えたのである。
やつれた顔をした三十代の男のように見えた。ハッキリ見えた訳ではない。須乱にも、そいつが自分と同じ世界に属する者でないことは、一目見て分かった。薄暗い部屋の中をフラフラと、まるで酒に酔ってでもいるかのような足取りでこっちに向かってくる。
須乱は声にならない悲鳴をあげ、逃げ出そうと椅子から立ち上がった。が、次の瞬間、床にヘナヘナと座り込んでしまう。腰が抜けたらしい。情けないことに、そのまま動けなくなってしまった。しかしそんなことはお構いなく、やつは須乱の方へと近づいて来る。
──ぶつかる!
と思った瞬間、そいつは須乱の身体をすり抜けていった。須乱は背筋に悪寒が走るのを感じ、そのまま気を失った。
それから何時間たったのだろう。電気を消した覚えはないのだが、部屋は真っ暗だった。須乱は起きあがって周りを見回す。やつはもう近くにはいないようだ。テーブルに備え付けのデジタル時計を見ると、深夜二時。草木も眠る丑三つ時である。
「きっと、疲れてるんだ……」
須乱はそう呟いて起きあがると、フラフラとベッドの方へ向かった。もう眠った方が良いと思ったのだ。
「ひぃ!」
須乱はまたしても情けない悲鳴をあげた。ベッドの上にやつがいたのである。やつはこっちを指さして、何事かぼそぼそと呻き声をあげている。逃げたいのに、須乱の身体は恐怖と緊張で硬直し、動けなかった。これが“金縛り”というものだろうか。須乱は泣きそうな顔で、情けなくガタガタと震えるばかり。しかし、身体は思うように動かないのだ。
と、次の瞬間、やつはもの凄い勢いでベッドから飛び出して、須乱の脇を通り過ぎ、部屋の入口の方へと走り去って行った。須乱はまたしてもその場にへたり込むと、情けないことに、またそのまま気を失ってしまった。
深夜二時。ホテルのフロントに四一三号室の客が青ざめた顔でやってきた。酒臭い声で、「出た、出た」とわめいている。
「あの部屋か……」
ホテル経営者の熊野は客に聞こえないように小さく呟いた。そしてその客に丁寧に謝ると、アルバイトのボーイにとりあえず別の部屋へ案内するよう指示をして、事務所に戻った。
「やっぱりあの部屋は封印しなきゃいかんかな……」
熊野はため息混じりに呟く。ただの酔っぱらいの戯言かもしれないが、変な噂が立っても困る。二ヵ月くらい前だったか、或る有名人が、あの部屋で亡くなっていたのだ。四十九日も過ぎたし、もういいだろうと思ったんだが。
「確か、須乱なんとかって気弱そうな作家だったよな。執筆中の急死だったらしいし、何か未練でも残ってたんかな……」
(2007年7月9日執筆・初掲載)