かぐや姫の物語
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2013年11月23日、1本の長編アニメーション映画が公開されました。監督をしたのは齢78歳になるスタジオジブリの高畑勲監督。その制作期間は8年、制作費は約50億円。これは同じスタジオジブリの大作映画「もののけ姫」の制作期間・制作費の倍以上。途方もない超大作アニメーション映画です。

高畑勲監督は、その異常なまでのこだわりと完璧主義故に、映画をスケジュール通りに仕上げたことが一度もないと云われる、ちょっと大変な人。しかし、その演出の巧みさと素晴らしさには定評があります。あの宮崎駿監督の才能を見出し、アニメーションの演出技法を教えたのも高畑監督なのです。その高畑監督が「ホーホケキョ となりの山田くん」以来14年ぶりに新作を作ることになったのには、ある理由がありました。スタジオジリのプロデューサーである鈴木敏夫氏によれば、日本テレビの元会長である氏家宗一郎氏が高畑監督作品の大ファンで、「死ぬまでにどうしても、もう一度高畑監督の映画が見たい」と言ったことがそもそもの始まりだったそうです。残念ながら、氏家さんは映画の完成を待たずしてこの世を去ってしまうのですが、「大きな赤字を生んでも構わない。金はすべて俺が出す」とまで言って、最後までこの映画の完成を心待ちにしていたそうです。その後、彼の意思は現在の日本テレビ社長である大久保さんをはじめ多くの関係者へと引き継がれ、映画は無事完成することができました。氏家さんがいなければこの映画を作ることはできなかった。だからこの映画の冒頭には、氏家さんの名前がクレジットされています。

この映画、何故それほどまでの時間と費用がかかったのだろうと不思議に思う人も多いかもしれません。それについては、スタジオジブリの鈴木敏夫氏や映画のプロデューサーを務めた西村義明氏が、完成に至るまでの苦労をいろいろなところで語っています。まず高畑監督に映画を作ることを説得するのに1年半、そこから脚本完成まで更に1年、その後の絵コンテ作業も難航し、一向に完成の見通しが立たなかったそうで、「高畑勲を選ぶか映画を選ぶか。高畑勲を選べば、映画は完成しない」と、何度も真剣に話し合ったそうです。こういったエピソードからも、完成まで高畑監督を支えた関係者やスタッフの苦労が偲ばれます。

また、今回高畑監督がこだわった、あの手描き・水彩画風の独特の表現技法が、途方もない労力と技術を要求されるものでした。アニメーションの知識をあまり持たない人が、あの画を見て「手抜きの絵では」なんて言ったり書いたりしているのを時々目にしますが、実は全く逆なんです。想像してみて下さい。アニメというのは、パラパラ漫画の要領で、少しずつ変化していく画を描いていって、それを連続して見せることで動かすというものです。だから従来のアニメでは、背景以外の動く部分は基本的に境目のはっきりした線で描き、塗りつぶしやすく、動かしやすくして作ってきました。ところが、「かぐや姫の物語」のように、手描きのかすれた線、水彩画風の塗り残しのあるような着色でこれをやろうとすると、線のかすれ具合や色のにじみ具合も同じように再現した画を何枚も丁寧に連続して描いていく必要があるのです。ましてや、今回のような2時間を超える大作でこれをやろうとすれば、気の遠くなるような途方もない作業になります。通常のアニメの数倍どころではない労力が要求され、しかもよほど絵の上手い人でなければ不可能なことです。常識的に考えれば、正気の沙汰とは思えません。

実際、スタジオジブリのスタッフや設備をもってしてもこの映画を作るのは不可能だと判断した鈴木氏は、高畑監督の専属プロデューサーとして西村氏を指名。従来のスタジオから少し離れた場所に、新たにスタジオを作りました。そして日本中から我こそはという腕利きのアニメーターを募集したそうです。高畑勲監督と言えば、アニメ業界では宮崎駿を育てた伝説の演出家。スタジオジブリからの呼びかけに、日本を代表するような優秀なアニメーターが数多く集結したそうです。にも関わらず、高畑監督が思い描く表現を実現するには、8年の歳月と50億円もの巨費が必要でした。

そうして完成したこの映画、本当にその完成度には圧倒されました。日本画のような、美しくて優しい、温かい画面。人物と背景がきれいに融合され、どこを切り取っても一枚の完成された絵になりそうです。余白を残した、正に人の手で描かれた優しい画は、観客の想像力を掻き立て、緻密に隅々まで塗りつぶされたアニメ以上に見るものの心を捉えて揺さぶります。愛らしい赤ん坊のかぐや姫、美しく成長したかぐや姫、沸き起こる衝動を抑えられず感情を剥き出しにして疾走するかぐや姫……。丹念に描かれるかぐや姫の成長と繊細な心の動きが、独特の映像表現と優しい語り口、丁寧な心理描写によって見るものの心を鷲掴みにし、何とも云いようのない不思議な感動へと誘うのです。

あらすじは原作の「竹取物語」の通りです。但し、原作のストーリーを忠実になぞっているのかと思いきや、物語を追うごとに、高畑監督の斬新な演出が徐々に顕わにになっていきます。 何が違うかと云えば、最も違うのは視点です。原作「竹取物語」では、かぐや姫という不思議な女性のことが第三者的な視点で淡々と語られていきます。一方「かぐや姫の物語」では、かぐや姫自身に寄り添った視点で、その心の機微や成長の過程が丁寧に描かれています。

また、この作品には人間の持つ様々なエゴや狂気、罪が描かれています。竹林で拾った子を神からの授かり物と云って育てる、子に恵まれなかった夫婦のエゴ。一夜にして大金を手に入れ、やがてその富に溺れていく翁のエゴ。子に自らが思い描く夢を強要する親のエゴ。生きるためには盗みも働いてしまう人間の弱さ。弱い立場の人間に救いの手を差し伸べようともせず、集団で暴行を加える人間の狂気。周りの人の気持ちなどお構いなく、ワガママ放題に生きようとする少女のエゴ。身分の違う相手に媚びへつらう人間の醜さ。好きな女の心を地位や金や力で我が物にしようと奔走する男達のエゴ。既に妻子があるにも関わらず、美しい女性の誘いに抗えない男の卑しさ。実子でもないのに力尽くでかぐや姫を引き留めようとする翁と媼……。

物語の終盤、かぐや姫と捨丸が不倫に走るかのようなシーンがあり、一部で批判を呼びました。結局ふたりは月の力に抗いきれず、その願いは叶わないのですが、このシーンで敢えて捨丸を妻子ある立場に描いたのには、相応の理由があったはずです。

かぐや姫が憧れ、一途に心を寄せる捨丸は、生きるために盗みを働き、平気で不倫にも走る卑しい人間として描かれています。何故でしょうか。

かぐや姫は、月の世界で罪を犯し、そのことで地球に送られたといいます。その罪と罰とは一体何だったのか。その答えは映画の中でもはっきりとは語られていません。

実は映画のパンフレットやノベライズ小説には、その答えがはっきり書いてあります。但し、それらを見なくても、緻密に構成されたこの物語をよく見れば、自ずと想像できるようになっています。すなわち、かぐや姫の罪とは、卑しくエゴにまみれた地上の世界に興味を持ってしまったことであり、その罰とは、地上に降りて人間の世界の苦しみを身をもって味わうことに他なりません。だからこそ、この物語の中で様々な人間のエゴイズムが描かれているのであり、かぐや姫の憧れる捨丸でさえも、弱い人間として描かれているのです。

では、この物語は人間の世界を卑しいものと切り捨てている作品なのかというと、実はそうではありません。人間は欲があり、エゴがあり、卑しい部分がいっぱいある。かぐや姫を迎えに来る天界の人々とは違い、弱く、感情的で、みっともない。しかし、むしろ、だからこそ人間は素晴らしいのだと、この映画は観客の心に強く訴えかけてきます。欲がなく、感情の高ぶることもなければ、確かに争いはなくなるだろうし、人を憎むことも、妬むこともない。けれど、弱い心を持つからこそ、人は人を想うことができるのではないだろうか。努力することができるのではないだろうか。泣いたり、笑ったり、怒ったり、悲しんだり、感情がなければ、思い出に執着することがなければ、心を患うことはない。でも、そういう世界が本当に幸せなのだろうか。美しいだろうか。最後のシーンで、この映画は観客の心に真っ直ぐ訴えかけてきます。

映画のラスト、泣き叫びながら翁や媼との別れを惜しむかぐや姫に、月の使者はそっと羽衣を纏わせます。すると、かぐや姫の顔からすっと表情が消え、心は平安を取り戻し、嘆き悲しむ翁や媼に対しても何の感情も持たなくなってしまいます。

このラストシーンに至るまで、かぐや姫の成長や心の動き、かぐや姫の成長を見守る翁や媼の気持ちが、非常に緻密に、丁寧に描かれていました。感情をさらけ出し、心の弱さも剥き出しにする人々の姿が丹念に描かれていました。だからこそ、このシーンに観客は唖然とし、その哀しさ、かぐや姫に与えられた罰の残酷さを知り、ショックを受けます。そんな残酷なシーンでありながら、月の使者は優しく穏やかな顔つきで、バックに流れるのは、異国情緒溢れる陽気で明るい音楽です。これは本当に、見たものにしか分からない衝撃的なラストシーンでした。そしてかぐや姫が去った後、地上に残された人々をそっと慰めるかのように、二階堂和美さんの優しく心を包み込むような歌が流れてくるのです。

高畑勲監督は、どうすればこのエンディングで狙い通りに観客の心をつかむことができるか、全てを緻密に計算して演出し、物語を組み立てたに違いありません。そのために、この映像表現も、不思議な童謡も、俳優陣の迫真の演技も、主題歌も、その全てを最大限に利用しています。 本当におそるべき映画監督、演出家だと思います。 映画の完成後、高畑監督にしては珍しく、自分の作品への満足感とスタッフへの感謝とを繰り返し述べていたのが印象的でした。 78歳にしてようやく、スケジュールも予算も考えることなく、自分の表現したいものを作りきることができたということなのだと思います。

私は大げさではなく、歴史に残る名作、高畑勲監督の、いやスタジオジブリの最高傑作が誕生したと思いました。本当に、これこそ世界に誇る日本のアニメーションではないかと思います。できるだけ多くの人に見て欲しい作品です。

原作の「竹取物語」が好きな人達の中には、この新しい「かぐや姫の物語」を受け入れられない人もいるようです。原作通り、帝を愛する高貴なかぐや姫が見たかったという人もいるでしょう。でも、そもそも「竹取物語」は作者不詳で、日本最古の物語とされています。日本各地に様々なかぐや姫の伝説が残っていたり、竹取物語の登場人物のモデルとされる人物についても、いろいろと研究されているようです。現存している「竹取物語」が本当のオリジナルとは限りません。だから原作を愚弄しているという類の批判については、ちょっと的外れではないかなと思います。

まあ、そうは云っても、作品を見ての感じ方は人それぞれ。好きではない人も当然いると思います。それは当たり前だし、いろんな捉え方をする人がいるからこそ、面白いとも思います。

とにかく個人的な感想としては、これほど観た後にいろいろ考えさせてくれる映画、頭から離れない映画は久しぶりでした。ラストシーンでは、涙をこらえるのに必死でした。悲しくて切ないのに、すごく愛や優しさや温もりに満ちている映画。人間のエゴや醜さを鋭く描きながらも、その弱さを含めて人間を賛美している映画。「かぐや姫の物語」は、そんな不思議で素晴らしい名作だと感銘した次第です。

(2014年1月2日執筆/2015年6月25日初掲載)